昭和51年4月21日 朝の御理解
                            中村良一
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」



御道の信心に基づいての生活。もうこれが最高の人間の生き方。万物の霊長としての人間の最高の生き方だと私は思います。「天に任せて地にすがれよ。」と言う御教えがありますね。一切を、神様にお任せした生き方。そして、お任せしておると言うだけではなくて、地にすがるという事。いわゆる、天に任せてと、神様に任せて、そして、地にすがるとは、やはり、神様にすがってと言うのです。こんな素晴らしい生き方があるだろうかと思うくらいに素晴らしい。ね。だから、それが本当に身に付いてしまうという事だと思う。なかなか任せられない。すがると言うても、迫力がない。
夕べも、もう遅うでしたが、大分のほうからお参りをしてきた二人。まぁどうにも出来んので、とにかく、合楽の先生にご相談してからとこういう訳である。もう、自殺したほうが良いと言われるほどしの難儀な問題があるのである。で、どうにも言い様がない、仕様がないから、まぁ合楽の先生の話でも聞いたらと言うのである。ね。なるほど、人間的に考えたら、本当に苦しいことであろう、悲しいことであろうとこう思うけれども。まぁ色々お話をさせて頂いて、とにかく、まぁ一生懸命参っておいでと。そういう苦しい時でなからなければ、なかなか一生懸命でないもんだと。ね。お参りはしたいけれども、朝が、その様な都合で間に合わない。いや、必ず、朝ことは要らんと。昼でもいい、晩でもいい。なかなか毎日ちはとこう言う。いわゆる、一心にすがろうという気を起さない。ね。遠いとか近いじゃない、問題は、本人が、その気になれば、お参りが出来るのですけれども。ね。本当におすがりをする、お参りをすると言う、いうならば、天に任せて地にすがるという事は、ね。そういう事だと思うんです。ところが、すがろうとしない。そして、天にも任せきらない。
金光様の信心で、これが一番、ここが出来た時に、金光様の信心の生き方が、どんなに素晴らしいかという事が分かる時だと思う。ああではなかろうか、こうではなかろうかと、任せきらん。ね。任せる人はあるけれども、すがりきらん。ただ、すがるという事は、お願いしとけば良いという事ではない。それは、お取次ぎの働きというものは、それは、本当に素晴らしいことは素晴らしいです。お取次ぎ頂いておるだけでも。けども、そのお取次ぎの働きをです。その、本当に、この分かりきらん。キャッチしきらんです。
昨日、遅う、秋永先生が、お礼に出てまいりました。あちらの奥さんの姉さんですか、あちらの奥さんの甥になります。その子供ですから、ようやく、歯医者さんです、この福岡で。それで、息子さんも、歯医者のお医者さんになって、これから、まぁ親の代わりが出来るという事から、な頃から病気になって、そして、ちょうど二十日ばかり前には、大橋の光男さんたちの所にも、もう死んだと言う、亡くなったと言う電話がかかったぐらいだった。行ってみたら、もう、死の、やはり寸前で、まぁだ、死んでしもうてはおられなかったけれども、もう、葬式の準備をしござるという様な状態だった。そん時に、秋永先生がね、あの、思うたことですよ。お取次ぎを頂いて、お願いをするなら、助けて貰わにゃいかん。それを切実に思うた。まぁそれこそ、秋長先生、いうならば、あちらのお母さんが、甥の事に一生懸命になるのは、こらまぁ当たり前、ね。自分の血を分けた姉の子ですから。甥ですから。けども、秋永先生にしてみりゃそうでもない。甥は甥でも、その、また甥ですから。ね。けれども、あそこの所がね、信心をさせて頂いておると、最近言う、信心の真を現すという事は、こんなことだと、そん時私は思うたです。それこそ、新田義貞という人が、ね。いよいよ、自分の言う分に追いつかなきゃならん。普通の道を取っておったんじゃ、とても間に合わない。そこで、あの、稲村ガ崎ですか、ね。あの、岩頭に立って、そして、この竜神に祈ったと。ね。祈っただけじゃない、侍としては、一番、魂と言われる、大切を言われる、黄金作りの太刀を竜神に奉って、その、願ったと言う。不思議に海の水が引いて、そこを、あの辿って行って、竜宮に追いついたと言う、その昔の話があります様にです。私はあの、信心の真を現すという事は、どんなことだと思いますよ。私は、もうその、甥のお願いに、秋永先生が見えた時に、それこそ、今の秋永先生では、一番大切なものをです。お供えをして、どうぞと言うお願いでしたよ。そしたらね、その晩に、この肺から、何か得体の知れない何かが、一杯出たそうです。ね。それからあの、また少し持ち直して、それから、その翌日から、また、こん睡状態に入って、十八日間、ずーっと、昏睡が続いておった。それで、とにかく、あの何と言うても、やはり、親がその気にならにゃいかんと、まぁ切々と、こりゃやっぱ、金光様のおかげじゃろうぐらいな事ですよね。もう、死ぬばっかりのつが、そういう事があって、それから、なんか医者の手違いで、そんなにひどくなられたんだそうですもんね。まぁ愁眉を開くと言うところまではなかったけれども、まぁそういう意味で、はぁこれが出たから楽になった。もう非常に呼吸が楽になって、あの、脇から見て、楽そうになった。そして、昏睡状態にまた入って、十八日間。
それから、この前の十八日の月次祭に、その先生という人も、何か、腰が砕けておられるそうですねぇ。自動車の中で、こう寝て来なければならないような方だと。それから、息子さんが獣医をしておられる、弟さんが、弟息子のほうが。そすと、秋永先生の奥さんの兄弟になる人と、三人で月次祭に参ってきてました。月次祭のお話を頂いて、もう私共が、医者であるがゆえに、大変、その難渋するという事は、信心という事に、なかなか分からんという事です。けども、まぁ親として、その周囲から言われるもんですから。そんなら、私が参ろうと言うて、お父さんが参ってきた。ほんなら、僕もと言うので、その獣医をしておられる息子さんと、それから、やっぱり、歯医者の奥さんになっておられる、すぐ秋永先生の奥さんの妹さんと三人でお参りをしてきた。ね。昨日、お礼に出てきたと言うのは、ちょうど、お参りをして、先生にお願いをしておるだろうという時間に意識が出た。ただ、偶然とか何とかと言えないでしょうが。その、もういよいよ難しい時に、肺の中に、こんなものが入っとるとは思われない様なものが、その出てきたという事。これは、秋永先生が、それこそ、自分の一番大切なものを、お供えして、そして、あの願って、一心の真に神様が動きなさった。ね。それから、いわば、親の心情ですか、ね。本当に、神様とか仏様とか、なかなか言い難い職業にあるお医者さん達二人が、親子で、ね。合楽にお願いに見えた。ちょうど、お願いをして頂いておる時間だろうという時間に、十八日ぶりに意識が回復した。そして、昨日で、その二日目、ね。
本当に、お取次ぎを頂くと言うても、その、例えばその、お医者さん方二人が、ここにお願いにくるという事だけでも、こりゃもう、恥も外聞もないと言うか、もうただ、助けて貰いたいという一心です。こりゃ、親子の情です。けども、来てからあと、お祭りが済んで、応接間で、あの具合が悪うなりなさったから、あそこにしばらく寝て下さいと言うて連れて行ったそうですから。ちょうど私も、そこに参りましたら、もうとにかく、もう死の寸前にあると、医者ね目から見て、あぁだこうだと、その死ぬ寸前の模様を話しておられました、二人で。その親子、お医者さんですからね、やっぱり。ね。けれども、ほんなら、ちょうど、その時間に意識が回復しておられる。ね。一心とか、ね。または、一心の真という様な、その働きを受けると言う事はです、ね。それこそ、まぁ奇跡と言わなければおれないおかげというものが現れてくる訳です。けども、これは、人間としてです、ね。まぁ当然の情が、そこに動いたわけであり、または、秋永先生の場合は、一心の真を現そうとして現したのじゃないけれども。日頃の信心が、秋永先生をして、ね。どうせ、お願いをして、お取次ぎを頂くならば、助けて貰おうと。そん為には、一心の真を現してのお取次ぎを願おうという事であった訳です。ね。けれども、なかなか、一心の真が現されない。なかなか、一心にすがろうとしない。それこそ、言い訳がある。遠いからとか、ね。お金がかかるとか。これでは、天に任せて地にすがるという事になりませんよね。
私はもう、本当に、一切の事がです。神様にお任せし切れれる信心。そして、それでいて、すがらなければおれないという信心。ね。すがるという事は、人間、自分、ね。いかに、人間が万物の霊長だと言うてもです。ね。それは、自分自身の無力さ加減が分かった時に、初めて、人間、万物の霊長としての、いわゆる考え方が、本当の事が出来る。こりゃ、人間でなからにゃ出来ないことだと思う。色々分からせてもらったら、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという事。ね。手が動いておる事も、目が見えておる事も、歩かせて頂いておる事も、ね。神様のご恩恵がなからなければ、見ることも聴くことも、または、歩くことも話すことすらも出来ないほどしのものが人間だという事。それが分かると言う事がです。私は、万物の霊長だから分かる。牛やら馬で、幾ら言うて聞かせても、神様のおかげで、御恩恵の中に、お前達は生きとるぞと、言うて聞かせても分からのだ。人間だから分かるのだ。ね。だから、初めて、人間、万物の霊長としてのです、ね。言うならば、霊長と言える訳です。ね。そして、その万物の霊長である人間が、分からせて頂くことは、いわゆる、吾無力である、自分の力がないと言うところから。地にすがらなければおられない。神様にすがらなければおられない。色んな問題がある、色んな事柄がある。あぁありたい、こうなりたいと言う思いがある。
夕べ私が、その、それこそ、自殺でもしかねない様な状態の方が、お参りに来て、おすがりをして、ね。もう自分の力では、どうにも出来んのだから、そこにすがる事を覚えろとこう言うのです。ね。そんなら、この様な状態で、この様に一心にすがっておりますと言う、一心にすがっておる印を現せと言うのです。ね。ただ、お願いしとりますだけじゃいかん。こんな一生懸命の思いで、おすがりをしておりますと言う、その印を、例えば、朝参りなら朝参りに、御用なら御用に現すのだ。ね。それが、本当にすがっておる。そして、おすがりをし、お取次ぎを頂いたが最後は、もうあなたにお任せをする。だから、任せるとすがるとが、一つにならなければいけないというのです。その、任せてすがれると言う事が、何と言う素晴らしいことだろうかという事を、私は、日々思います。ね。お任せをすると言うところに、心が安らいでおります。ね。それでも、やはり、自分の無力であるというところにです。ね。すがらなければおれないもの。だから、すがる姿勢というものをです。一心の真を現してのおすがり。そこに、私共の、御道の信心をさせて頂く者の生き方というか、ね。そして、こんな素晴らしい生き方が、またとあるだろうかと思われるくらいな生き方が出来るのです。ね。
それは、天地の道理を分からせて貰う。その天地の道理に、一番合った生き方であるという事が分かるのです。ね。万物を見て道理に合う信心。ね。このくらい素晴らしい、道理に合った生き方はない。天に任せて地にすがると言う生き方。ね。だから、そういう、その生き方が出来ることの為に、御道の信心の稽古はあると言うても良いのです。ね。どんなに難しい問題であっても、ね。それを、お願いをして、神様にお任せをする。それでいて、一心にすがる。すがるという事は、どういう事かと言うと、任せるという事。すがって任せるという事である。ね。それが出来るのは、私は、人間、いわゆる、万物の霊長だからと仰る、万物の霊長の資格を、例えば、私共が頂いておる。頂いておるだけではいけん。そこが、そういう風に分かってくる。天に任せて地にすがるという様な生き方が身に付いて来る。そういう信心が身に付いて来る。ね。そこから、偉大な神様の働きというものの中にある事を実感する。そして、おかげの世界にある日々を過ごすことが出来るのです。ね。
これは、大きな意味合い、万物の霊長であるものが、万物を見てという事よりも、ね。天地自然の働きを見てという事になります。ね。天地自然の、その働きの中に、いわば、生かさずにはおかん、助けずにはおかんと言う働きが分かってくる。万物の霊長だから、それが分かる。だから、そういう偉大な大きな働きに、ゆだね、すがるという事。それを、ほんなら、一心の真をもっておすがりをする。そして、そこんところが、分かれば分かるほど、その一切を神様任せになる。任せきる信心を頂いて行く。
この、天に任せて地にすがる生き方こそ、御道の信心の、一番素晴らしい、いや、万物の霊長としての生き方の、一番素晴らしい生き方だと、私は思います。ね。だから、その為に、天地の、言うなら、偉大な働きを、先ず知らなきゃいけない。その知ると言う、具体的に言うと、生かさずにはおかん、助けずにはおかんと言う働きがある。それには、ゆだねるという心が、一番素晴らしく、天地の道理に合うことになる。しかも、ただ、委ねておるというだけではなくて、いよいよ、人間の無力さ加減というものが分かって、ね。言うならば、一心の真を現してすがるという手立て。ね。そして任せる。そこから、素晴らしいおかげの世界が展開してくるという事です。どうぞ。